村田いづ実
2010年にやった個展に来て、ん十年ぶりに会った女子美の同級性に「いづ実ちゃ
んはあの頃と1mmも変わらないのね、素晴らしいわ」と何故か泣かれた。
家に遊びに来た高校の同級生にも、「あなたの家は変、おじさんもおばさんも少
し老けただけで、あの頃と何も変わっていない」と気持ち悪がられた。
確かに、生活そのものはたいして変わらず、時間が経った。
去年、母が亡くなり生活の変化により、何か時を刻みだした感じがした。
個展のお話しを頂いた時に御伽草子の四季の有る龍宮城の事が頭に浮かんだ。
と同時に私自身が浦島太郎のような気がした。
龍宮城に居て、鯛やヒラメと楽しく過ごしている内に時間は過ぎた。
母という繭に守られていた海から上がると、まわりの景色が違う。
水の中に居てぼやけたいた物がクッキリと映る。どうやら皺も増えたようだ。
エラ呼吸から肺呼吸に変わらざるをえないので、上手く空気を吸えない。
ひんやりした風をじかに皮膚に感じ心もとないのだけど、どこか海には戻れない
事に安堵している。空は高く青い。
海に居た時間と陸に上がった時間。四季の有る空間で過去と今と未来を寿ぐ為に
行為する。
“浦島花子”としての村田いづ実に関して
浦島太郎の物語というのは、各地に何種類も異なったストーリーを持っている。もっとも古いものは「古事記」に見いだせる。一般的には室町時代の「御伽草子」が有名だ。
亀を助けたことで浦島は、龍宮城に招かれて3年の間、極楽のような歓待を受ける。戻ってみれば700年経っていた。玉手箱を開けると一気に時間が流れて一瞬で老化してしまう。
今回、村田いづ実が個展の主題にしたのはこの浦島の物語なのだが、村田自身の人生に大きな変化が生じたことによる。母の死である。
人の成長過程にはいくつかのメルクマールがあるが、それは生まれる以前から始まっている。まず、胎内にいるときの感覚、すなわち子宮内の羊水にいたころの満たされた浮遊感までを潜在意識の中に刻み込んでいる。次に子ども時代以前以後が大きな変化となっている。
村田いづ実の場合は母の庇護の中で最近まで守られていたために、この子供時代が相当に延長されていたのだろう。ある意味でモラトリアムな状況が続いていたのだ。
母の死に遭遇することで村田いづ実はそうした状況から現実の光景と初めて接触したのだという。ジャック・ラカンのいわゆる現実界に衝突した。ラカンによれば母は想像界を司るものであり、其処はきらきらしていたりゆるゆるしていたりもするだろう。芸術の根幹に根差しているものは、この想像界に属している感性だ。
母の死によって玉手箱を開けてしまい浦島花子となった村田いづ実は、そこで初めて2017年の現実的時空に出てきた。そこで過去の記憶を振り返り、自宅の茶室にあったふすまをインスタレーションしてそこに墨絵を描くという。ほかにも母と過ごした青春の時期を回想することで、大人の社会に接触した自己との関係を明瞭にし確認する行為と展示かと思う。
このことはしかし、単に一個人の問題にとどまらない。たとえばフォーク歌手、吉田拓郎は今年71歳になるが、「僕は昔考えた70代の爺さんとは程遠い感じだ。まだ若さが続いているような気がする」とまでいう。戦後の日本は憲法の問題もあって直接戦争をしなかったために美術をはじめ、文学、音楽までもが「永続的青春」のなかにいたともいえるだろう。青春を延長して死ぬのである。だが、いま日本は戦争というあさってだった事項にまともに突如としてさらされようとしている。永続的青春の終焉なのかもしれない。
村田いづ実の覚醒はこうした時代の覚醒とも期を一にしている。さらに、自ら母になることを選択しなかった行為者は、「永続的乙女=Girly」の世界の住人でもあったわけだが、これは母となることにより否応なしに社会と接触することを拒否したものにのみ許される特権なのだ。その意味でも覚醒した村田がメタレベルから展示と連続的なパフォーマンスで新たな展開をいかに見せるのか興味深いものがある。
森下泰輔(現代美術家/美術評論家)
企画:地場賢太郎
会場: Art Lab Akiba
アートラボアキバ Art Lab Akiba
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