不在者の知覚

 

‘まばたき’とは視ることと瞑目することの一対の組み合わせであり、外側の世界を自分の内側に取り込む生物的技法なのかも知れない。間断のない塊としての世界はまばたきにより分節され、瞬間が作られる。のっぺりとした日常に微かなズレが産み出され、そのズレの集積が我々の時間、空間の知覚を作り上げている。大和田の示唆していることはこのようなことではないだろうか。

 大和田はこのまばたきの差異に注目し、写真を撮るという迂回を経ることで、見ること、知覚することの現象学的探求を一貫して続けて来た。カメラのまばたきの結果である写真は一種の知覚の物質化、顕在化であり、鑑賞者は写真によって撮影者の内側にある筈の知覚を共有できるのである。更にその知覚は必ずしも人間のものとは限らない。たとえば宇宙の果てにある銀河の極小の光の粒は望遠鏡という知覚を通し瞼の内側に取り込まれるのだ。ところでレンズは光の進入方向により、凹も凸も左右両側に焦点を持っている。同時という概念を棚上げして、レンズが装着されたカメラによって撮られた写真について考えると、写真を見ることは対象物の反対側にレンズを挟んで立つことであり我々自身が対象化し視つめられていることでもある。つまり百億光年彼方の銀河の写真を見ると言うことは、自分と百億光年彼方の宇宙の双方が写真という中心軸によって対称的に向かい合うことである。

 ところで写真では撮影者の無意識が写り込んでしまうことが多いが、それは目とファインダーが極端に近接していることから生じているからであろう。勿論絵画に於いても画家の知覚や無意識を体験することができるが、絵画制作においてはァインダーの位置はイーゼルの上のキャンバスに相当する。つまり画家のビジョンは一旦外部に投げ出され対象化されるのだ。しかし上述したように、いくら目とファインダーが近接していても、写真は身体の外にあるレンズという硬質で透明な物体を像が通過することで、世界と撮影者の関係の構造がより明確であると言える。ところが大和田の写真の独特の不在感、無人感は、写真の構造的な対称性を宙吊りにしてしまう。この不在感、無人感は大和田の写真には通奏低音のように初期から基調となって底の部分で響いているが、今回有効期限を超過したフィルム、つまり制御できない部分を抱え込んでいるフィルムの意図的な使用からもこの対称性の宙吊りは、より明確なものになっている。極端な言い方をすれば非在者同士が見つめ合う様な、それも瞬き、ブリンクスという差異の知覚を導入した大和田独自の手法により、撮影者の不在感が一層体感されるという一見矛盾した、不思議な印象が創出されるのだ。

我々の知覚はもはや写真を抜きに語ることは出来ない。人間は写真を発明し、使用することで視覚を拡張、変容させてきた。大和田作品の中の不在者の感覚はこの事実を思いがけない形で我々に突きつけてくる。

 

 

本展ディレクター 地場賢太郎

 

 

 

タイトル:過ぎ去りゆく光を捉えることを夢想する

 

 写真を自身のアートの表現ツールとする作家には、大きく分けて2つのタイプがあると思う。1つは写真によって切り取られたイメージの提出に興味があるもの。そしてもう1つは、写真自身の持つ風合い、もっといえば、伝統的なフィルム写真の粒子の集積による画像定着に愛着を持つもの。大和田登はあきらかに後者のタイプだ。多くのアーティストがデジタルカメラに持ち替える中、大和田は頑なにフィルムカメラにこだわる。

写真とは光を捉える行為だと考えてみれば、フィルム写真の、粒子の集積そのものによって印画紙の上に像が浮かび上がってくる様は、網膜の機能を連想させ、身体性との連関がより直接的に感じられる。それはもの凄いスピードで毎秒飛び去っていく光の粒子をつかのま捉える意志的な行為ともいえ、まばたきによって寸断された一瞬の光景を脳裏にイメージとして定着させる生理的な行為の延長線上にあるものともいえよう。

 BLINKS》とはまばたきのことである。大和田のこのシリーズは、微妙な角度の違いによって撮られた2枚組の写真で構成され、そこには左右の視差および連続したまばたきによる網膜上の視覚像形成に対する彼一流の考察がある。そも《視る》とは、如何なることなのか―。多くの作家が視覚像をめぐる解釈をテーマにしている中、大和田の写真作品には、むしろ生理的な視覚像の形成そのものに対する新鮮な興味と、自身を取り巻く世界に対する純朴な、しかし根源的な驚きが感じられる。そしてそれは、私たちに過ぎ去り続ける光の粒子の存在そのものを思い起こさせるのである。

 

 

菅間圭子 銀座芸術研究所ディレクター

 

 

 

 

無意識を定着させる大和田の写真作品

 

写真ではシャッターレリーズボタンを押すことで、シャッターが開き、そして閉じる。その間、フィルムまたはデジカメではCCD個体撮像素子に光が当たる。つまり写真が撮れる。電子シャッターにおいてもほぼ理屈は同様だ。一眼レフカメラで撮影していて、ファインダーがまばたきをするように感じるのはこのためである。一方、見るメカニズムとは、まず光は網膜の奥の錐体または桿体と呼ばれる細胞に届く。錐体や桿体は光を感知すると神経信号に変換する。その信号が網膜の表面にある神経節細胞に伝達され、さらに脳の視覚野に情報を送ることで何かを見ているのだ。視神経ではないが、「運動準備電位」の性質というのがある。運動準備電位とは、脳から各筋肉へ送られる信号で、各筋肉の運動に先立って発生することから「準備電位」と呼ばれていた。1980年代にベンジャミン・リベットという科学者が発見したのだが、彼は特殊なモニターを開発し、脳に電極を取り付けた被験者に、「指を動かしたい」という気持ちになったときに、動かしてもらうよう指示した。結果、「無意識」下に運動準備電位が生じた時間は、意識が「意図」したよりも約350ミリ秒早かった(「マインド・タイム 脳と意識の時間」ベンジャミン・リベット著 下條伸輔・訳 岩波書店より)。運動準備電位は、意志よりもおよそ0.3秒先行して指を動かそうとしたのだ。これは人がシャッターを押したり、視覚情報を認識する際にもいえるだろう。実際は意識と無意識の間にわずかながらのずれが生じているのだ。大和田登の写真は、こうしたずれを無意識の方角にアートとして定着しているように映る。だから大和田の写真を見るものは、写真的なメカニズムを超えて、あたかも時間軸の方向に流れる映画のワンシーンのような感覚を醸し出されたり、反対に静寂・静止というものが意味する哲学的階段を無意識に向かって降りて行くような不思議な感覚を味わわされることになるのだ。

 

 

森下泰輔(美術評論家)